関西大学と福島隊員

1日に越冬交代してから、だんだん昭和基地から人が減り、13日には我々越冬隊32人だけになった。みんな帰りのしらせに飛んでいった。しかし、しらせはすぐに昭和基地から離れていったわけではなく、色んな観測をしながらまだ近辺にはいたみたい。
14日、我々32人以外を乗せたしらせがオングル島に別れを告げに来た。
見晴らし岩という高台から突風吹き荒れるオングル海峡冬景色の中、哀愁たっぷりなしらせを見送った。
シチュエーション的に取り残され感ハンパない。

そして20日には、越冬成立式が行われた。
前夜のミーティングで隊長から、
「明日、越冬成立式でみんなの意思確認をします。どうしても日本に帰りたいという人は今日のうちに私に言いに来てください。」と説明があった。そんなワンチャンありなんだ。
ビックリ。
しらせがすべての観測を終え日本を目指して北上を始める前に、いちおうの意思確認の儀式として越冬成立式というものがあるみたい。
昭和基地の看板が立つ19広場に越冬隊32名が整列し、隊長がひとりひとり名前を読み上げる。
大きく返事して1歩前へ。
就職以来、読み上げる側ばっかりやってたけど、呼ばれる側ってなんか新鮮。
隊長からの「これからはどんな困難が起ころうとも、この32名でなんとか解決していかなければなりません」というお言葉に、改めて使命感わいてくる。

越冬成立式の後は、みんなで福島ケルンにお線香をあげに行った。
福島隊員は観測隊唯一の殉職者。
1960年10月10日、福島隊員は猛烈なブリザードの中、犬に餌を与えた後、海氷上のそりを点検するため外出したまま行方不明になったそう。遺体は発見されないまま1週間後に死亡と認定され、発見されたのは8年後だったそうだ。

実は今から2年ほど前、関西大学校友会此花支部の総会で講演させていただいた時に知り合った関西大学OBのHさんにこんな話をお聞きしたことがある。

昭和36年に関西大学法学部へ入学し、入学式直後のホームルームで担任の民法学者であった福島四郎先生(白髪でいつも羽織を着て授業をされるので有名な先生)から、息子が昭和基地で行方不明になっているとのお話がありました。(Hさん談)

福島紳隊員のお父様でいらっしゃる福島四郎さんが関西大学の教授だったということにも縁を感じるし、南極の講演を通して、その教え子であったHさんと出会ったことにも何かの縁を感じる。

福島隊員の冥福を祈ります。